解説・王子神社祭礼田楽

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田楽という言葉は、大変広い意味をもっていて、地方地方によってその内容がずいぶんと違って使われています。
それで、研究者によってもいろいろに解説されているのが現状です。私は、田楽という言葉には、
1、ビンザサラ躍り芸能そのものを指す場合と、
2、ビンザサラ躍りを含んだ芸能を指す場合と、
3、ビンザサラ躍りを含まない囃子田系の芸能を指す場合との、
三つがあると考えています。
ビンザサラ躍り芸能そのものの田楽では、花笠などの頭かぶりをしてビンザサラを使います。
ビンザサラ躍りを含んだ芸能の田楽では、獅子舞や舞楽などの芸を含んで「田楽」と呼びます。
囃子田系の田楽は、すりササラを主に使います。
ここ王子のものは、ビンザサラ躍り芸能そのもので、 田楽躍りを一言でいえば、基本的な形態は、ビンザサラを使い、二列で陰陽を表し、主役を帯同して躍る、というはっきりとした一つのジャンルをもった芸能である、ということになるでしょう。
ただし、土地土地によってはビンザサラを用いる多様な芸能を見ることができます。

王子田楽は、学術上は、上下に躍動しておどる田楽躍りの部に入ります。

田遊びや田ばやしとは異なります。

田楽の起源ははっきり分からないほど古いとされます。 そしてかなり早い時期から『田』の楽を離れて独自の芸能としての経過「も!」たどるようになりました。平安時代には、笛や太鼓に合わせて、鼓やササラを打っ て京の都の街の中を躍り練り歩きました。高音をもって危難を打ち払うという信仰が有ったようです。
(以下、田楽躍りとしての田楽の記述とします)


田楽と獅子舞の図(年中行事絵巻より)

それが、次第次第に「躍り」を中心とした祭りへと形式を整えながら今日の形に伝わったのが「躍り系の田楽」と言えるようです。
「躍り系の田楽」自体、全国に50位いしか残っていない大変めずらしいものになってしまいました。

 王子神社での田楽躍りは、ごく近世になって田楽舞いとも呼ばれる ようにもなりました[王子神社田楽舞]。この地域に伝わる田楽という意味では王子の田楽とか王子田楽と言います。儀礼の部分を除くおどりの部分だけを指して王子田楽と言うこともあります。

[王子神社祭礼の田楽の起源]

 王子神社の田楽は、今で言う東京の北半分 から埼玉県に至るまでの広大な地域の支配者だった「豊島氏」が当地に紀州熊野の「王子神」を勧請して王子神社の社殿を造営し、 ここの地を「王子」と定めた1322年元亨2年(後醍醐天皇の時期)の中秋より始められた、といわれています。

王子田楽の起源について詳しくはココをクリック

王子神社の別当寺であった金輪寺の僧侶によって行なわれました。 江戸時代になって、このお祭は、ひろく江戸の人々に知られるところともなり、 小林一茶 もこの田楽を見に来ました。

「 鑓(やり)やらん いざいざおどれ 里わらわ」

( 王子神社の祭礼は魔除けの槍祭として在りましたから、田楽をおどった者に縁起物の鑓(やり)をあげましょう、との意味です。)

[田楽躍りという芸能の特徴]

田楽躍りという芸能の特徴は、
複数のおどり手が、笛や太鼓に合わせて、 鼓やササラや小太鼓を持って、二列になったり、輪になったり、入れ違ったりしておどる、
主役として神童役がいて陰陽に分かれて躍る、というところに有ります。
おどると言うより所作をくり返すと言った方が適当かもしれません。
おどり所作での最大の特徴は、木あるいは竹を数十枚つづったササラ(筰)[ビンザサラ]という楽器を持つことです。



江戸時代初期に描かれた王子権現田楽躍り
(若一王子縁起絵巻より)

[王子神社の田楽の貴重なわけ]

躍りとしての田楽は今では全国にわずか五十数箇所にしか伝わっていないとされ るほど貴重な芸能となってしまいました。

また諸方の多くの田楽の中には、古来の伝承を欠落したり、変様したり、衰退したりしているものもあります。
そのような中にあって、 王子神社の田楽は、田楽固有の特徴を良く今日まで保持し続けた標本的田楽として、芸能を研究する人々の称賛を得るところとなっています。

所作を三々九度にくり返すこと、警護の鎧武者が同行すること、おどりに『中門口(ちゅうもんぐち)』という番組があること、などの田楽躍りには固有の特徴もありますが、これらを王子田楽では伝えています。

王子田楽の第一番目のおどりが中門口(ちゅうもんぐち)といいます。これは平安時代に田楽の一行が貴族の門内に入った所で一人づつ前に 出て個人芸を披露したことから伝えられた名称と言われ、田楽という芸能にとって特有の名称であって、それがしっかりと伝えられてきたことは王子田楽 の芸能の確かさを証明するものでもあるわけです。



王子田楽は農耕儀礼の田楽ではなく、
魔伏せの田楽 として全国の田楽の中では異彩を放っています。

(躍りとしての田楽については、学識上今なお旧態な認識による 分類法が一般です。つまり田楽イコール農耕儀礼という被せ方を全国の田楽に対して行い、各個別の特性を認識できないでいることは、王子の田楽 から見ると残念なことではあります。)



[ 王子神社田楽式〈武者の儀礼及び七度半(しちどはん)の儀礼〉とおどりの意味 ]

王子田楽をおどる八名の内、とんがり烏帽子風の花がさをかぶった先頭の二名が『子魔帰(こまがえし)』と呼ばれる神様役で平たい花がさを かぶった他の六名がそのお付きの一行ということです。その御一行を鎧武者三名[露払い武者一名、四魔帰(しまき)武者二名]が警護します。

四魔帰武者はそれぞれが各七本づつの大刀を帯び、大きな力、多くの力を表現します。 全国に例を見ないこうした異形は名物的存在です。この田楽の御一行を王子神社宮司がお招きするのに『七度半(しちどはん)』というお使いを立てます。 何度もかなわず、ようやく八度目に田楽方の登場がかなうのですが、お使いは社殿と田楽方との間を七回半行き来するわけで『七度半』と呼ばれるものです。 これは全国にも数少ない儀礼で、田楽の文化的価値に花添えるものの一つであります。


いよいよ武者を先導として田楽一行が神社へ入り,田楽が演ぜられます。


王子田楽の番組名の中には 農耕にちなむものは一つも無いのが、諸方の田楽との違いの特徴でもあります。おどりは『子魔帰』を主役とした構成となっていて、魔を退散させるこ とを祈念する所作と考えられます。


[日本一美しい王子神社の田楽、日本の文化遺産]

現代に残された 数少ない『田楽』という芸能の中で、しかもその芸能の基本的要素をしっっかりと伝承して きた王子神社の田楽は、紀州那智大社の田楽や奥州平泉毛越寺の田楽、あるいは他の地方のと比べても、どこのものとも似ていない独特のものであり、 往時の芸能文化の高さを今に伝える文化財の顕著な例として、当地だけでは無く、広く日本の文化遺産として高く評価され ています。華美な花がさを 付けておどる、形式美においては日本一の田楽であります。

昭和19年以来長らく絶えていましたが、消滅を惜しむ地元の篤志者 達の血のにじむような労で昭和58年に復興され、 昭和62年に早稲田大学名誉教授本田安次博士ご検証の下 北 区の指定無形民俗文化財となりました。

⇒昭和63年田楽行列での本田博士。へ

王子田楽は、王子神社田楽舞として王子神社と王子神社氏子領域30町会による王子神社田楽舞保存協賛会に よって支えられています。

この貴重な芸能が、これからも永く伝えられて行けるよう、 御支援をお願いいたします。


[王子田楽の番組名]

一番 中門口(ちゅうもんぐち)

二番 道行腰筰(みちゆきこしざさら)

三番 行違腰筰(ゆきちがいこしざさら)

四番 背筰腰筰(せずりこしざさら)

五番 中居腰筰(なかいこしざさら)

六番 三拍子腰筰(みつびょうしこしざさら)

七番 黙礼腰筰(もくれいこしざさら)

八番 捻三度(ひねりさんど)

九番 中立腰筰(なかだちこしざさら)

十番 搗筰腰筰(つきざさらこしざさら)

十一 番筰流(ささらながし)

十二 番子魔帰(こまがえし)

論記・王子田楽衆 代表 田楽おじさん(M,T)

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王子田楽関連用語

・王子田楽・東京都北区・王子神社・伝統芸能・本田安治博士・段木一行先生・渡辺伸夫先生・宮尾與男先生・中村規先生・中村理行先生・西岡芳文先生・中世芸能・ビンザサラ・古典芸能・郷土・田楽・躍り・おどり・横笛・ささら・早稲田大学演劇博物館収蔵花笠・伝承・文化財・無形民俗文化財・地方文化・中世・中世研究・豊島氏・甲冑武者・七度半・稚児・中門口・北区役所文化財係り・王子・王子田楽衆・王子神社田楽舞保存協賛会


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