王子田楽の起源について

明治期に発行された「日本」という新聞があった。(T.J氏提供)
そこに、 王子神社の田楽 の紹介記事が載った。明治27年8月13日付。
後日、記事を読んだ読者から投稿があった。明治27年8月26日付。
その要約は次のようだった。[ 王子神社=東京都北区王子 ]
投稿者・田中玄玄子。...[要約]

『 ・・・自分の知り合いに豊島氏の子孫で豊島美喜保氏 なる人がいて、その人が次のように言っていた。

豊島氏の祖先の豊島三郎権頭康家から七代目 の豊島景村は武蔵国の、豊島、足立、多摩、児玉、新倉、の五郡の領主であったが、なにか大鳥の奇瑞を 得て紀州熊野よりその霊を迎へようと思い至った。

元亨二年の中秋の時期に芝生の岡へ王子権現の宮殿を造営し社田を寄付しこの地を王子村と称し豊島足立 多摩児玉新倉五郡の産土神(うぶすながみ)として崇敬した。


この王子権現の古雅なる田楽は元亨二年(1322)中秋より 始まったものだ。
・・・ 』


王子神社の田楽 の紹介記事、明治27年8月13日付、 詳細

新聞 [日本] No・1810号、明治27年8月13日、王子田楽についての紹介記事。 (挿絵二画添えてある)

「 [王子神社の田楽]

府下豊島郡王子村なる王子神社において ・・・略・・・田楽を執行す、府下祭典中最も古雅なるものこの田楽を以って第一とす。

この田楽は何時の頃より始まりしか、この装束は小田原北條家より寄付せられ其の後徳川三代将軍よりも寄付 あり同時に

春日局より鑓百本寄付せられ其後元禄年間に五代将軍より再編ありしものなりとぞ、(・・・以下略)」


この記事を読んだ読者から No・1823号、明治27年8月26日、への投稿記事。

「 [王子神社の由来] 田中玄玄子投稿。

『 貴社新聞千八百十号に王子神社田楽の古例を挙げられたり、
其文中にこの田楽は何時の頃より始まりしか云々とあり、

然るに我知己に 豊島美喜保氏 なる者あり、
この文を見て余に語って曰く、

同社は元亨二年中秋に祖先武蔵国豊島足立多摩児玉新倉五郡の領主

豊島三郎権頭康家七代景村、 大鳥の奇瑞に依り紀州熊野より其霊を迎へ芝生岡へ王子権現の宮殿を 造営し社田を寄付し王子村と称し
豊島足立多摩児玉新倉五郡の産土神として崇敬せり

亦飛鳥大明神を同所に造営す(今の飛鳥山是なり)

其遷宮の時代は戦国割拠の風是有り故に総て鎧武者を以って警衛せり、

花躍りは紀州の古式に準し
五郡の内より出て神前において舞しなり、

其景村の子従五位下左近将監輝将、豊島三郎権頭康家同左衛門尉清光 の霊を王子権現の摂社に祭れり(今現に存せり)、

依ってこの古雅なる田楽は元亨二年中秋より興りしもの
にして太田道潅武州押領の際廃滅せしものならん、

然るを小田原北條関東を一統せし時再興せしものなるべし、この古雅なる田楽幸いにして今に残り新聞に 掲載相成るも神徳の照明なるに依ってなり。』


高木M・注記
古来よりたいへん誤解が多く、同一文の中によく混在して書かれてしまうものなので敢えて注記する。

紀州の古式に準して舞うとの表現で指摘される舞とは、紀州有馬村でおこなわれていた
[ 花しずめ ] の舞のことで、王子神社では紀州に模して江戸時代初期まではおこなわれていたようだが、 その後、王子神社の別当寺金輪寺の宗旨の変更に伴う、熊野権現信仰を離れる必要が生じたようでそれにつれ、 熊野権現信仰を表現する色彩の濃い [ 花しずめ ]  を終えてしまったと考えられる。

徳川三代家光が王子神社再建時に作らせた王子神社絵巻 [若一王子縁起] には、その中の記述で 出生の明解な有馬村 [ 花しずめ ]  と、 家光再建以前の古い舞殿において躍られている(おそらく江戸時代以前の演舞の様子とみられる) 出生を明かせていない [ 田楽躍り=王子田楽 ] との両方が描かれてある。

 [ 花しずめ ]  は王子神を熊野から勧請したいきさつを説明する意味で きわめて重要なものであったから、徳川家光が寛永時代に 作らせた王子権現の縁起絵巻 「 若一王子縁起 」 の中に著述者の林 道春が 「 日本書記 」 の中の熊野の祭り記述をこの縁起文に 熊野との関わりを説明として織り込んだのだった。 そこには、絵師狩野尚信の描いた、サクラの小枝をもって踊る複数の男性の絵が 添えられた。
文には日本書記より
「春は花をもって祭り、幟旗立て、 笛吹き、歌い、舞ておどる。」 と引用文が書かれた。

江戸時代の名所案内誌として発刊の  [ 江戸砂子 ] は、王子神社紹介記事の中で 王子田楽 をその [ 花しずめ ] と間違えて紹介記述してしまったために、後代研究家は それを引用また引用で来たために皆誤った王子田楽解説を行ってきていて昭和年代までそのような 解説がはやっていたから、それに沿い、王子の田楽は「 熊野由来 」 というオマケまでがついてしまって来た。

私は、王子田楽は、鎌倉文化にもとづく魔除け儀礼であって「 鎌倉由来 」 であり、「 熊野由来 」 では無い と思っている。若一王子縁起には、[ 花しずめ ] を「 熊野由来 」 と説明してあっても、 「 王子田楽 」 を「 熊野由来 」 と書けなかったために、かえって王子神社の宗旨変更にも差しさわり無く 生き延びられてきた、という事情こそ、今日まで続いて来れた根本理由と見られるからである。


いま、江戸時代に八代将軍吉宗を称えて造られた
飛鳥山の碑 を見てみよう。

これを見て、[ 江戸砂子 ] は王子の花祭りが王子田楽のことだと勘違いしてしまったもののようだ。

文中に「 若一王子縁起 」の記事に触れ、熊野祭礼にも言及し ここにも「 日本書記 」 の中の熊野の祭りの花の祭りの記述を引用して 「 曰く熊野の神は春には花をもってまつり、鼓打ち、笛吹き、旗立て、歌いて舞う。今の王 子の祭日に鼓吹旗たて歌い舞うのはそこから来ている。 」とある。
これを読むと、人は王子田楽のことと思うらしい。


よく考えればわかることなのだが、王子の田楽では歌うことなどありえないのだ。

さらにまた、当地の豊島氏の中心的系流の子孫と思しい豊島美喜保氏なる方のところに 「 元亨二年の中秋に王子田楽がつくられた 」と伝わってきたと言うとおり、 王子田楽はススキを背につけて躍る初秋の躍りなのであって、古今ともに春の祭りなどでは全く無いのだ。
現在に伝わる王子田楽も伝承に忠実に武者も背にススキを負い、躍り手も背にススキを指して躍っている。 この作法は江戸時代に描かれた「 遊歴雑記 」の王子田楽絵と全く変わってはいない。
つまり飛鳥山の碑の指す「 熊野の神をまつる 」「 王子の祭日 」の模様は王子田楽のことで無いことが 自明であるが、江戸時代から今日にいたるまで、王子田楽の実際を見知らない歴史研究の方々により、 その碑文を王子田楽の描写として配文されるのを見ると悲しくなる。残念だ。

豊島美喜保氏なる方の「 花躍り 」という言い方の中にもこうした混同が見られるが、「中秋」と言って いるように、王子の田楽の起源をのべていることに間違いはないのに、そうした世の ” 王子田楽の 世評常識 ” に基づく誤解に基づくままに周囲に語っていたのであったろう。

つまり、その
「 中秋より興りしもの 」 との言は、明らかに春に桜の花枝を手に手に持って踊る 「 花しずめ 」を指し得ない。
王子田楽のおどり手は昔も今もススキを背に差しておどるのである。

実はなおもっと驚くことがある。八代将軍吉宗の時代まで王子の「花しずめ」の舞が行われていた というこの飛鳥山の碑文の文章自体が嘘か誤解かで書かれた、という驚くべき事実がある。

なぜかというと、三代将軍家光の命により作られた「若一王子縁起」絵巻のその「花しずめ」 の舞の絵のところにつけられてある説明付箋には

「以下、図面の祭事、往古は当所にも之有り、 今は退転、本熊野に之有る由」(往古にはあったけれど今はもう行っていない。本熊野にはこれがあるという)
と書かれてあるのだ!

つまり、飛鳥山の碑文は吉宗の故郷熊野に王子を縁づけるために どうしても熊野の祭りが今も王子でも行われている、と説明したくて無理やり事実とは関係なく 創作した物語であった、ということになる。吉宗が飛鳥山周辺を大開発してくれたことに鑑み 美談が作られた、ということを良しとすることなのかもしれないが、事実史では無い。
この碑文は実は、文化先進国であった朝鮮の学者を装った日本人学者が、朝鮮風の 難解な文章じみてこの碑文を書いてあって近年に飛鳥山博物館が全文を解明するまでは、 造られた江戸時代からずっとこの難解な文章が近年にいたるまで誰一人良く読み解けなかった、 といういわくつきのものであったのだ。うがった見方をすると、「花しずめ」の事実を 疑われにくくする配慮として難解な文が必要だったともとれる。
加うるに、王子田楽では歌わないからその碑文の書いている王子の祭りは田楽の事では無い、 と見抜けたのはこの田楽に携わっていればこそ出来た見立て、と自負する。



熊野那智田楽と王子田楽

熊野那智田楽は応永十年につくられたとの記録があって一般に そうした解説が普通である。
これをまともに受け止めると、王子田楽の起源は那智田楽より80年もさかのぼりそうで、 だとすると、もしかして、王子田楽は熊野那智田楽よりも古いかもしれない。

しかし、那智田楽の研究において、もしかしたらもっと古くから田楽そのものが存在したようだ、 との見方もあるらしい。
王子田楽の方も、今ある田楽の形態は、寛永以前の王子田楽の絵( 狩野尚信 )と思しき四本柱の舞殿 での絵をみてもすでに今日の形体とおなじであり、舞台田楽として当時から完成された姿を見るにつけ、 それよりもっとずっと前にはそこへ行きつくまでの古形の時代があったのではないかと考えたくも なり、そうした研究は今後を待ちたい。


那智田楽の起源については1、
「那智勝浦町ホームページ・・・イベント情報・・・那智の扇祭り 」
または、 2、「那智扇祭り 那智田楽」
とご検索下さい。


注記-2・・近年「清光」は法号で生前名は「清元」だったと解明されている。


注記-3
源頼朝の挙兵に大いに貢献があった豊島一族が鎌倉時代を通して前後およそ300年にわたり当該地域 を支配し、その中心地を今の東京都北区王子に置きました。
いわば、王子は政治的な意味で地方の「中心地」であり、
王子田楽は豊島氏の ”護国” 的性格の芸能として発想されたもののようです。
豊島氏の領域文化の内に今日まで、王子の田楽、浅草のビンザサラ舞(田楽)、それに板橋の田遊び、 と三っつもの伝統芸能が伝えられたことは大きなことと、西岡芳文氏は指摘されました。
なお詳しくは、中世史を詳細に研究なさっておられる、西岡氏の諸文献をご参考ください。
・・・西岡氏への検索方法

検索・・・”西岡芳文 王子田楽” (にしおかよしふみ おうじでんがく)
なお、西岡芳文氏の諸文献についてさらに詳しくは ”西岡芳文” でご検索ください。
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王子田楽関連
『歴史評論』西岡芳文・・「東京・王子田楽の復活」
大会準備号・伝統文化の継承と地域社会
一九八九年度歴史科学協議会大会報告のために、論説


王子神社の起源について
王子神社の起源はじつは明白ではない。
元亨2年に当地に「新たに祠宇をたて」という古来の記録文字は、 「初めてたてた」とも「従来からあったがまた新規にたてなおした」ともどちらともとれる。それ以前、 この神社の記録とおぼしき「熊野権現御宝前」との文保の記録や、はるか以前、頼朝のもと1184年に紀伊守護、 1191年に熊野三上の庄の地頭となっていた豊島有経の存在をみれば、そうした時期 に熊野神を勧請していてもおかしくない。
豊島氏の熊野との関わりの長い歴史があったのだから、そうした対象を早い時期から形あるものとして 置いていたのは想像に難くない。王子神社の歴史をそこまでさかのぼってみるのも一つの見方と言える。 「王子地域」という名称が言われるようになったのは「若一王子神」勧請後としても、王子神社の 歴史をそこからと考えるのも、「熊野権現」を礼拝するようになった時期からを王子神社の歴史と 考えるのも、どちらも見方だと思う。


記・@33koku