王子田楽見るの記・特集

王子田楽を鑑賞に訪れた方々の「見るの記」です。
ここでは田楽演舞鑑賞記にしぼって載せさせていただいています。
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PJ news
PJ: 葦乃原 光晴
中世に誘う、「王子田楽」=東京・北区
http://www.pjnews.net/news/282/20090811_1 ←クリック ・・ PJ news
「王子田楽」を見ていて、その独特の心地良さの根底にあるのは人々の暖かさではないかと感じていた。

(2007-08-05 ) 東京都北区の王子神社で8月9日(日)に、北区指定無形民俗文化財「王子神社田楽舞」が奉納された。(撮影:葦乃原 光晴、8月9日)

東京都北区の王子神社では、8月の例大祭で北区指定無形民俗文化財「王子神社田楽舞」(以下、「王子田楽」と表記)が奉納される。
王子田楽は「魔除けの田楽」で、華美な花笠を付けて踊る。
他の地方のどこの田楽とも似ていない独特のもので、 形式美においては日本一の田楽とも言われている。
中世に始まり、戦時中に一時途絶えだが、昭和58年に高木基雄(タカギ モトオ)さんを始めとする地元の多くの方々の力により復興された。

記者は「王子田楽」が奉納される8月9日(日)に、王子神社に取材に行った。
しかし、悪天候で予定外の展開になった。
「王子田楽」は午後4時半から、王子神社の境内に設けられた舞台で始まる予定だったが、午後3時40分頃、雨がぽつぽつ降り始めた。
雨足は次第に強くなり、午後4時過ぎには舞台に雨除けのシートが被せられた。
その後、雨は止むどころか雷が鳴り始め、午後4時半には本降りになっていた。

午後4時半過ぎ、神社から「午後5時まで雨が止むのを待ちます」と案内があった。
しかし、雨は豪雨になった。近年よく起きる、予測が困難とされるゲリラ豪雨だ。
記者は、境内で傘を差して立っているのが辛くなり、雨宿りのため本殿の庇の下に入った。
庇の先からは滝のように雨が落ちていた。
これでは屋外の舞台で田楽を舞うのは無理なので中止になるかと思ったが、「本殿の中で行う」旨の案内がなされた。

結局、「王子田楽」は豪雨でも帰らなかった300-400人の観衆を前に、午後6時頃から神社の本殿で始まった。
なんと、「王子田楽」を舞うのは中学2年生以下の子供だった。

境内で配られた「王子田楽」の解説には、「田楽躍(おど)り」としての芸能の基本要素(主役が居る。
ササラ、鼓、小太鼓を持つ。陰陽に分れて躍る。鎧武者に警護される。神迎えの「七度半」の儀礼がある。
舞台下での中門口〈ちゅうもんぐち〉の躍りを伝える。)をしっかりと伝承してきた。と書いてある。
また、日本各地のどこの田楽とも似ていない独特のものとも書かれてあった。

鎧武者たちに護られた8人の舞童が太鼓と笛の音に合わせ、ビンザサラ(短い板状の木や竹を何枚も紐でつなげた楽器)をシャラリ、シャラリと打ち鳴らしながら優雅に舞う。
ゆったりした楽器の音色と躍り、衣装や花笠の華やかさ、それに舞童の可愛らしさが加わり、穏やかで心地よい、中世を思わせる別の世界に引き込まれた。
「王子田楽」は、確かに唯一無二の特別なものに違いない。

記者は、神官も、祭りの役員も、鎧武者も大人たちはみんな脇役で、「王子田楽」の主役は子供たちだと感じた。
神迎えの「七度半」の儀礼を執り行ったのも小学一年生か、それ以下の幼児に見えた。
大人たちは、子供たちが立派に役目を果たせるように、気を配り、声をかけ、暖かい目で見守っていた。
そして、子供たちは精一杯役目を果たしていた。記者には、その雰囲気が心地よく感じた。

実は、「王子田楽」を本殿で奉納したのは平成元年以来だったそうだ。平成元年は台風で、本殿で奉納したときには観衆は一人も居なかったらしい。
しかし、今回は本殿に入りきらない3、4百人の観衆が見守った。20年間で「王子田楽」の素晴らしさが認められてきたのだろう。

記者は、「そうだ、この人たちは、この伝統文化を復興させて伝承している人たちなのだ」と、改めて思い出していた。
復興前から田楽を躍っていたのは子供たちだったそうだ。きっと大人たちは、ずっと昔から優しい目で子供たちを見守っていたに違いない。

取材しながら「王子田楽」を見ていて、その独特の心地良さの根底にあるのは人々の暖かさではないかと感じていた。


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お手軽ブログ yaoki60.exblog.jp
http://yaoki60.exblog.jp/5921806/ ←クリック ・・ 2007年8月写真集
・・・・・ 王子神社で田楽が行われた、この手の田楽踊り、田楽舞としては日本一と自慢していました。

(2007-08-05 ) 王子神社で田楽が行われた、この手の田楽踊り、田楽舞としては日本一と自慢していました。


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「  深夜獨語  」・・・・2003年8月16日
http://www1.accsnet.ne.jp/~critty/diary.html
http://www1.accsnet.ne.jp/~critty/past_kage/diary03.html ・・・・・ お目当ての田楽舞は佳かった。

(2003年8月16日更新記録) お目当ての田楽舞は佳かった。
 まず、七本も太刀を帯びた武者が登場する。七本の太刀は並はずれた力をあらわし、それで魔をうち破るというのだろう。そして、田楽の舞われる舞台の四隅をつぎつぎ、大きなかけ声とともに「どんどん」と踏みならす。奈良の興福寺の薪御能でも最初に僧兵が舞台に置いた紙をどんどん踏んでいたし、文楽では、番組の前に、若手の人形遣いが三番叟を見せるが、あれも足を踏み鳴らしている。
たぶん、舞台を浄め、何かを鎮めることをしているのだろう。
 その次に「七度半」という行事がある。これがおもしろかった。神主さんのお使いの、白丁姿で素足にわらじを履いた若者がすぼめた傘(貴人などに差しかける大きくて長い柄の)に覆いをしたのをかついで、本殿前から鳥居まで駆けてきて、どうぞ、田楽を舞ってくださいという意味のことを言う。
と、待ちかまえていた四、五歳くらいの大勢の子供はかん高い声を張り上げて「まだまだ」と叫ぶ、と同時に、竹のさきに槍の穂をかたどった赤い紙と、きれいなビラビラのついた槍を振りかざして、神主さんのお使いを追い帰してしまう。

本殿まで逃げ帰った白丁君は神主さんの命を受けてまた鳥居のところまで来て、そして追い立てられて逃げ帰り、ということを七度くりかえす。
白丁の顔が次第に汗まみれになってゆくのと比例して、子供らは勢いづき、槍で白丁のお兄さんに打ちかかるやら、逃げるのを追いかけるやら。
付き添いのおかあさんがあわててひきもどしたりしていた。

七度目(注記:正しくは八度目)にやっと「どうぞ」ということになり、田楽舞一行が境内に入ってくる。七つ八つから十二、三歳くらいの子供たちが、一番大きい子を先頭にその次の子、最後は一番ちいさい子と、三人づつ二列に並ぶ。装束も列ごとに紅と緑とにわかれている。
雅楽の左方舞(さほうまい)が赤系、右方舞(うほうまい)が緑系の装束となっているのと何か関係があるのだろうか。

最初は舞台の下で「中門口(ちゅうもんぐち)」というのを見せる。むかし、田楽の一座が貴族の門を入ったところで、一人づつ前へ出て、お目見えのご挨拶に藝を披露した名残りと言われるもので、十歳くらいの子がささらを「シャッシャッ」と鳴らして舞うのを目の前で見るという幸運にめぐまれ、どきどきしてしまった。

いつもは八人で舞うのだけれど、二人の子が暑さで倒れてしまい、六人となったというアナウンスがあったが、先頭に立つ年嵩の子二人は烏帽子をふっくらさせたような花笠を目深くかぶり、小脇にした鞨鼓(かっこ)を鳴らしながら舞う。
次の二人は平たい花笠、ささらを鳴らし舞う。
一番ちいさい子二人もささらの子と同じ花笠をかぶり、手に提げた平たい太鼓をバチを持った手を高々とあげて打ち鳴らしながら舞う。

どの子の花笠も裾にぐるっと、赤い紙をほそく切ったびらびらがさげてある。魔除けだというが、舞い手のうごきにつれてひらひらそよぐのがうつくしく、その隙から緊張した少年や少女の顔がほの見えるのもうつくしい。

 舞うといっても、上半身は時に首を傾げるほかは、それぞれの楽器を鳴らすために腕をうごかすだけ、もっぱら、足さばきだけの舞いだけれど、きちんと腰を入れてりっぱに舞っている。
いちばんちいさい子が白足袋に結いつけ草履のちいさな足を懸命にうごかして舞っているのが、いじらしく、けなげで、ちょっとなみだぐんでしまった。

 先頭の子の一人が、かぶっている花笠がずり落ちそうになるのを手で支え、支えして舞っているのがかわいそうだった。それでも舞いが乱れなかったのはりっぱ。あとで、ほんとうは来年舞うはずだったのが、倒れてしまった子の代役で舞ったというアナウンスがあった。花笠が頭に合わなかったのだろう。観客の拍手にはにかんでようなおじぎをしていた。
ほかの子たちのおじぎも愛らしかった。

佳いものを見せてもらい、すずしいよい気分にしてもらった。


”管理人”注記・・・・・七度半は七度使いし、八度目にやっと「どうぞ」と田楽の登場が叶うので、「七度半」と言います。

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「荒川モバイルクラブ」・・・・・掲示板http://www.ara.or.jp/mobile/
http://river2.ara.or.jp/mobile/cgi-bin4/tree_bbs.cgi
<270> 真夏の王子界隈 ■事務局 ■2004年08月09日
http://river2.ara.or.jp/mobile/cgi-bin4/tree_bbs.cgi?no=270・・・・・うわさ通りの美しいものでした。感動モノでした。
(2004年08月09日記)
王子神社の田楽は、うわさ通りの美しいものでした。
区の無形民俗文化財になっているだけあって、きちんとした行事として定着しているよう。
舞う子供たちも、一生懸命練習をしたのでしょう。
感動モノでした。


サイトおよびURL

「飛鳥山のまさひこ」
http://plaza.rakuten.co.jp/su97toyoda/
http://plaza.rakuten.co.jp/su97toyoda/diary/200408080000/・・・・・こういうものが 残っているんだねえ  感激♪
(2004年08月08日)
今日は、王子神社のお祭り
お神輿が 威勢良く 街を練り歩いている。
よっしゃ よっしゃ 
せいや せいや
それそれ それそれ
いろんなふうに聞こえる
かっこいいなあ。
神社の前を 通ると 「王子田楽舞」 ○×記念物 って看板が出ていたので、 のぞいてみる。
顔を隠した衣装で、雅楽にあわせて小さい子が踊っている。
そのまわりを 鎧武者の衣装の人が守っている。
こういうものが 残っているんだねえ  感激♪


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「義 臣 写 真 館」 
http://4travel.jp/traveler/jiiji/・・・・・ず〜っと続けて欲しい

(2004/08/11)
鎌倉時代から続く東京北区の王子神社で田楽舞です。
伝統あるお祭りなんですね。
このような祭り、維持するのも大変でしょうが、ず〜っと続けて欲しい物です。



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続・SACRA事務局の日記「王子田楽」 
http://blog.livedoor.jp/stakahashi2/
http://blog.livedoor.jp/stakahashi2/archives/50467171.html・・・・・末永く(千年くらい?)続けてほしい
http://blog.livedoor.jp/stakahashi2/archives/2006-08.html

(2006/08/6)
有志により再興されたそうだが、じっと見ていると田楽がもともともっていたと思われる ワクワク感がよくわかる。美しい存在が跳ねる躍り=ジャムピングなのよ。
伝統あるお祭りなんですね。
コドモも含めた共同体の記憶の結晶として末永く(千年くらい?)続けてほしい
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2006年08月08日
王子の田楽
8/6
・「王子の田楽」 北区王子 王子神社
暑い暑い暑い。激しい日差しが降り注ぐ。やっと真夏がきた。王子へ。再興された王子の田楽を昨年に引き続き見に来た。 午後4時からということだったが、あまりに暑いので5時からとなった。

今回は行列からついていってみよう。王子神社の鳥居に向かい、100mくらい離れた旧金輪寺前、 現在は北区第四庁舎前駐車場に、花槍の稚児、大刀をたくさん差した四魔帰武者、準備のひとびと・・が並んでいる。
庁舎から田楽の舞童(舞い手は8人=花笠、子魔帰という被り物がひじょうに美しい)、本殿側から槍合わせの儀の長老たち、 それに若い宮司が加わって行列が始まった。涼しげな笛の音にのってすすむ。
横断歩道を渡って本殿前にくると特設舞台が設営されていてまずその前で宮司が祝詞、玉ぐし、のあと舞台上で長老たちの槍合わせの神事、「まだ、まだ・・」という使者が 往復する七度半の儀礼、武者による舞台清めがあって、それからじっさいの田楽のパフォーマンスがはじまる。

まず舞台下で「中門口」、それから舞台に上って「道中腰ざさら」に続いて6演目くらいを切れ目なく演じた。
充実した芸能=キチンとした感じでよかったよ。舞童はぜんいんコドモで名前が胸元に下がっていてカワイイ。
田楽という芸能は日本では十世紀くらいにやたらと流行って一世を風靡してネコもシャクシもやったということだが、 ここのは鎌倉時代くらい豊島氏によって始められたという(もともとは那智から勧請されたらしい)。

全国には田楽は50くらい残っているという(浅草神社にもある)。
王子の田楽は江戸時代でも有名でそれを見た記録もたくさんある。

戦争中・昭和18年で止められ=一度廃絶してから、昭和58年にまだそのじっさいを記憶していた方々がいらして、 有志により再興されたそうだが、じっと見ていると田楽がもともともっていたと思われるワクワク感がよくわかる。
美しい存在が跳ねる躍り=ジャムピングなのよ。

千年以上たっているのに、たとえば雅楽が今もそうであるように、もともと外国から伝わった芸能であるという感じが濃厚に思える。 あまり他の日本の芸能に近くはない?
いちばん近いのはやっぱり韓国の農楽のステップだろう。そういう点がわかってひじょうにおもしろかった。

なお今回下調べしようと「田楽展」という王子田楽についての展示のカタログ(平成13年)を読んだら、 この王子田楽を復興された立役者の高木基雄氏が、いかにこの儀式・芸能を再興させたかを詳細に述べられていて、 過去の人間の肉体の動きを再構成・想像するのはじつに血沸き肉踊る体験なのだナアとわかった。
障壁画や仏像みたいに具体物があるわけではないので、再興といってもほとんどはんぶんくらい創作といえばそうで、 でも芸能ってそういうものなんだろうナ。

願わくばコドモも含めた共同体の記憶の結晶として末永く(千年くらい?)続けてほしいものだ。
来年、誰か誘ってつれてこなくちゃな。
ぜひ一緒に行きましょう。


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