王子稲荷神社 | 東国三十三国稲荷総司伝承
王子稲荷神社タイトル

王子稲荷神社

観光名所としての王子稲荷神社は古来「東国三十三国稲荷総司」との伝承があったと北区教育 委員会の研究が明かしたのであるから、王子稲荷神社説明にはこの古民話に基づかない「関東八州稲荷総司」 との辞書伝聞はふさわしくない。

観光名所・王子稲荷神社概要

古代にはここ王子稲荷神社の地は古東京湾の浪打際であったとされる。
王子駅の北西に歩いて5分ほど。境内に大銀杏が参詣客を迎える。

古くは、岸稲荷と称し、創祀年代がわからないほどの古社で、 門の石柱に「康平(平安時代)年中、源頼義、奥州追討のみぎり、深く当社を信仰し、関東稲荷総司と崇む」とある。
石階段は左に女階段、右に男階段が平行し、上った正面に彩色華やかな社殿がある。
関東稲荷総司、と中世より伝わる「関東」の意味は「東国三十三国」



を指し、遠く東北まで含む稲荷の総元締めを自認してきた由緒ある神社。

秋田の招福稲荷神社はここを本宮と仰ぐ。→ 招福狐の行列

王子稲荷神社自体の年間行事とは別に、 毎年、大晦日の夜に、近くの「装束稲荷」から狐に仮装の人々による「 王子 狐の行列 」 の除夜詣で行事が行われる。

元亨二年(1322年)領主豊島氏が紀州熊野「若一(にゃくいち)王子神」を勧請したことにより 「 王子 」 地名の元となる兄弟社の王子神社とともに古来から「岸稲荷」と呼ばれてきた当社も王子稲荷神社と称されるようになった。

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[ 王子稲荷神社由緒記 ] 抜粋
御祭神は、「稲荷大明神」と称え奉る衣食住の祖神。 小田原北条氏が深く尊崇し、二百石を与え朱印状を寄せていた。

江戸時代にもそれは引き継がれ、徳川将軍家の祈願所と定められて栄えた。 代々の将軍の崇敬はきわめて篤く、社参は勿論、三代将軍家光公は、寛永十一年に社殿を造営し 諸具一式を寄進し、五代将軍綱吉公は元禄十六年に、十代将軍家治公は天明二年に、それぞれ修繕を寄進、 十一代将軍家斉公は文政五年に社殿を新規再建した。

当社へは遠方よりの参拝者が多く、諸方の街道筋に「王子いなりみち」という標石や、奉納石灯籠が建てられ、 参詣人の道しるべとなっていた。また、飛鳥山の桜の花見をかねての行楽客もあり、かつては、門前には茶店、 料理屋等が軒を連ねていた。

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王子稲荷社=若一王子縁起絵巻絵
王子稲荷社=東国三十三国稲荷総司

参考WEB ・ ウィキペディア・「 王子稲荷神社 」
『 ---「 東国三十三国 」 の稲荷の頭領 というのが正しい伝承である。--- 』

王子稲荷社=広重絵
王子稲荷絵(部分)
東京都北区岸町1−12−26

御祭神
宇迦之御魂神 (うかのみたま)、 宇氣母智之神 (うけもちのかみ)、 和久産巣日神(わくむすび



東京都北区岸町の王子稲荷神社は平安期に「東国三十三国」を指す「関東」稲荷総司と呼ばれた。
多くの人はここに言う「関東」をいまだに「関東地方」に想定しつづけている。

「 東国三十三か国稲荷総社 」 の古伝承・経緯、その確証

王子稲荷界隈は後醍醐帝の時期に王子と称する以前は岸村と呼ばれていた。古東京湾が王子稲荷近くまで入りこんでいた時代 に付けられた名かも知れないが、だとするとこの関東ローム層の台地の下の地域はどこもみな岸村と 名付いてしかるべきものとなってしまうだろうにもかかわらず、ここだけが岸と言われてきた。私見になるが、 もしや交易地として岸だったのではないか、と思ってしまう。近在の中で王子稲荷の概念的な大きさはそれを 示しているのではないだろうか。

その「岸村」の平安時代に東征の源頼義が「岸」稲荷に立ち寄って「こちらを関東稲荷の 総司として崇めたてまつる」と述べたと伝わってきたが、そうした「岸」稲荷の大いさが頼義に立ち寄らせて 口上させた要因の一つだったのではないだろうか。

後述するが、「岸」稲荷はこれ、つまりこの時の「関東」文言、を当時の地理概念のままに「 東国三十三か国 」として、以降 ずっと数百年にわたり「 東国三十三か国稲荷の総司 」 を自認伝承し来った。

後醍醐帝の時期以降、王子の地名となってからもその伝承に変化は無かった。
つまり、東国33ケ国(東海道の15国、東山道の11国、北陸道の7国) の稲荷社の頭領を自認した時よりずっと狐火がここ王子の地の王子稲荷にむかって集まって来る、との民話伝承を800年以上にわたり保持 し続けたわけである。 江戸時代の初期、すなわち、寛永年間の徳川家光政権が「若一王子縁起(にゃくいちおうじえんぎ)」編纂に向けて 王子の狐火調査を行った記録が残るが、この絵巻の王子稲荷の項に「三拾三ケ国の狐稲荷の社へ火を燈し来る図なり」との付箋がつけられた。

それとともに、王子稲荷は「東国三十三か国稲荷総司」の扁額をかかげ、またそのむねの幟をたてて東国稲荷の棟梁たるを自認していた。


を経て寛政の時代、東京都北区教育委員会が研究で、幕府役人が調査 書に『東国総司と称し候』(王子稲荷が東国総司と申しております)との報告をしていたことを確認した。
幕府は全国の治安引き締め策から王子稲荷を調査したがこの時、寺社奉行松平輝和は老中松平定信に 「王子稲荷額文字之儀ニ付、金輪寺相糾候申上候書付」で始まる文書を進達した。そこには『東国総司と称し候』との文言が 記載されていたのだ。




すなわち、ひろく思い込まれている王子稲荷の「関東八州稲荷総司」との変説は近世の寛政時期以降の比較的新しい説明であって 古くからの伝承ではないということが明らかとなった。
今後は王子稲荷を東国三十三か国稲荷の総司伝承のなかでみていくことが重要となる。

資料

団十郎絵

文政年間、七代目市川団十郎の一行が雪の中、当時の観光名所・王子の稲荷に
参詣に来た時の様子を描いた五渡亭(歌川)国貞絵。


子稲荷神社のさらに裏手の高みに、守護の白狐を祭る「白狐神社」があった証拠の絵として貴重。今は無い。 土地の者から「びゃっこ様」と親われる崇敬を得ていた。いまでもそう呼んだとお年寄りが伝える(石鍋老)。
白狐の社絵

白狐の社
手前が白狐の社(鳥居しか描かれていない。)武士が鳥居下に立たずむ。
黒衣の町人風が石段を上がってきた。 左下側に稲荷の屋根が見える。
(浮世絵特徴の誇張で描かれてある。実際には王子稲荷の崖上のきわめて狭い土地に建つ)
2014年現在、社屋は無く石鳥居のみ残り草に覆われている。「天保三年」との刻みある遺構石が横たわる。

天保三年遺構石

宝には、渡辺綱という武将により切り取られた腕を鬼女が取り返しにきて逃げる場面を描いた柴田是真の描いた「茨木」の扁額がある。
天保年代、商権回復運動をしていた砂糖問屋組合が奉納したもの。
北区刊

茨木(鬼女の図)
荷坂を隔てた丘の上にはまた、創生年代不詳の「カメ山神社」がかつてあり、 普通、亀山と表記されるがそこは弥生期の竪穴住居跡の出土もあったので元は甕(カメ)山だったのかも知れない。

在の王子稲荷神社は、昔と変わらず、初午、二ノ午、三ノ午に「火防せの凧」を求める善男善女が万を数える人出で賑わう。

大晦日から元旦の早暁にかけては恒例の狐行列があり数千人のギャラリーが集る賑わいとなる。
王子狐の行列・公式サイト

日ごろはまた、歴史を楽しむ諸団体の人々が軽リュック姿でこのあたりを散策するのが王子の日常の光景ともなっている。
動画
令和5年、2月初午(2/5)地元の芸能愛好家の手で新たに民俗芸能的手法による「王子稲荷きつね田楽」なる 児童らの躍りが創作され当日の神楽殿に初演奉納された。

(画面クリック)

王子稲荷神社きつね踊り・初午 2015年2月5日 Youtube動画



HP製作・・・@33koku・・・2023.2.15

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