■ 王子神社(旧称・若一王子宮、王子権現)と王子稲荷神社の
或る歴史の一面を考える
(東京都北区王子)
王子神社は京浜東北線・王子駅から100mのところにあります。
【豊嶋有経が紀伊守護人に任ぜられて紀州熊野地方と関りができた1184年から、「若一王子縁起」で
王子神社創立として語られた元亨の年(1321)までは137年も経過しています。
この間に熊野からお札をいただき、祭祀の中心地とし
ての当地の神域で崇めたであろうことは十分に想像できます】。
それゆえ、【発見できただけの資料にのみこだわって王子権現
(王子神社の旧称)成立の解釈を試みるということが真実にせまれるとは思えないのです】。
なぜそうした思いに駆られるかと言いますと、
北区指定無形民俗文化財王子田楽をあれこれ検討して思うのですが伝承芸というのはその芸の形態に
は歴史性があらわれていると言えるからです。
平安時代のパレード田楽と鎌倉期以降の陰陽二列田楽とは形態が違います。
こういうことなどいろいろから推定して、王子田楽の成立を考えてみると、「とにかく古いよな〜」、というの
が感想です。
それと同時に、「
修験の思想背景 をもって良〜く構成されてるな〜」、とも感じます。こういうすごいものが
醸成されて成立するには時代背景のなかでタップリ力量を得てしか生まれないだろうという大きな必然
性の存在があったにちがいない、と思うのです。
そうした論理展開を王子神社の歴史にもあてはめ
てみました。それで次のように想像しましたわけです。
豊嶋有経が紀州熊野地方と関りができて間も無くの頃に熊野神が当地(王子)にもたらされ、
その信仰のもとに100年間くらい金輪寺で思想醸成ができて、豊嶋氏が最大統治領域を獲得できたころの
勢力絶大なころ、豊嶋景村が新たに熊野神の若一王子神を勧請しなおして神域に王子宮をこさえ、
王子田楽を作り催した。それが元亨2年だったのではないか。想像です、あくまで。
【歴史というのは新しいもののほうを人は受け入れる傾向がある
ような気がします】
たとえば、【王子の狐民話】がその例です。こちらの話は王子神社
の隣の王子稲荷神社のほうの話となります。
いま、王子の狐の民話伝承について大晦日に関東中から狐が集るもの、とほとんどの人が受け止めています。
しかし実はこれは幕末の【寛政時代から作為的に幕府が民話に介入し、作り変えて流布された】
のです。
事実はこうです。
おそらく平安かもっと以前から王子稲荷には東日本(当時のことばで「東国」)全域から狐が集合するという
伝承がずっと続いていた。
【 →王子の狐の歴史 】
http://ojikitune.web.fc2.com/kitune-no-rekisi.html
寛政時代になって江戸幕府は王子稲荷の経営に干渉しようと調査
に訪れた。
調べた役人が寺社奉行松平輝和を通じ老中松平定信に「(王子稲荷が)東国惣司ト称シ候」(王子稲荷が
自分のことを東国総司と自称していますよ)と文書で進達していたのです。
つまり、東国33ケ国の総司と王子稲荷が喧伝していたことの事実報告でした。
幕府は王子稲荷から東国33ケ国を表記したもろもろを没収し奪権の処罰を与えたのです。
変な話です。
【もともとは王子稲荷の東国33ケ国狐集合伝承はおそらく平安時代からのものです】
それを徳川幕府は幕府がそのようにみとめ認証したものでは
ないからといって民話伝承の否定にかかった、というわけです。幕府権勢の維持にやっきになったと
いうことでした。
世には「寛政の改革」といわれている社会引き締め策がおこなわれました。
以来、狐民話は狭く「関八州から狐は集る」と地誌などで解説されるようになったのです。
人々はこの民話をずっと口にしてきたのです。
そういうこともあり、王子神社の成立の話もなにか手近いことだけでの検討ではいけないのではないだろう
か、と考えたわけです・・。
by @33koku
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