【 王子神社の歴史を新たな角度から見つめてみる 】
当地は中世に豊嶋氏という武家に長い間治められていた。
文明10年(1478)太田道灌による攻略で滅亡したが、さかのぼれば豊嶋武常は前九年の役(1051年→1062)で源頼義に従い、曽孫清元(光)は源頼朝に従った。
豊嶋氏はこれより代々鎌倉幕府に仕え400年以上もの長きにわたり当地支配を磐石なものにした。
豊嶋氏は頼朝配下として重んじられて豊嶋有経が元暦元年(1184年)に紀伊守護人格にまた紀伊三上庄地頭に任ぜられて紀州熊野地方と関りができた。
王子神社の成立についてみると・・・徳川家光の命で起こされた「若一王子縁起」 [ 寛永11年(1634年) ]という縁起絵巻がある。
この書には王子神社の縁起について「後醍醐の天皇御宇元亨の年(1322年頃)・・・新たに祠宇を建てあがめける」と書いてある。
「新たに」という言い方が二つの解釈を生んでいる。
一つは『まったく無いところへ新規に』というのと『今までも有ったが作りなおして』というのとの二つ。
【歴史というのは新しいもののほうを人は受け入れる傾向がある】
たとえば、王子神社の隣の王子稲荷神社の【王子の狐民話】がその例となる。
いま、王子の狐の民話伝承について大晦日に関東中から狐が集るもの、とほとんどの人が受け止めている。
しかし実はこれは幕末の【寛政時代から作為的に幕府が民話に介入し、作り変えて流布された】ものである。
事実は、
おそらく平安かもっと以前から王子稲荷には東日本(当時のことばで「東国」)全域から狐が集合するという伝承がずっと続いていたとみられる。
【 →王子の狐の歴史 】http://2machi.yokochou.com/kitune-no-rekisi.html
寛政時代になって江戸幕府は王子稲荷の経営に干渉しようと調査に訪れた。
調べた役人が寺社奉行松平輝和を通じ老中松平定信に「(王子稲荷が)東国惣司ト称シ候」(王子稲荷が自分のことを東国総司と自称していますよ)と文書で進達していた。(北区役所調べ)
つまり、東国33ケ国の総司と王子稲荷が喧伝していたことの事実報告だった。
幕府は王子稲荷から東国33ケ国を表記したもろもろを没収し奪権の処罰を与えた。
【もともとは王子稲荷の東国33ケ国狐集合伝承はおそらく平安時代ころからのもの】
それを徳川幕府は幕府がそのようにみとめ認証したものではないからと民話伝承の否定にかかった。幕府は権勢の維持の必要から世に「寛政の改革」といわれている社会引き締め策をおこなったもの。
以来、狐民話は狭く「関八州から狐は集る」と地誌などで解説されるようになり人々はこの民話をずっと口にして今日に至る。
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この例には、王子神社の成立を読み解くに手近い資料だけで規定することの危険についての示唆がある。
豊嶋有経が紀伊守護人格に任ぜられて紀州熊野地方と関りができた1184年から、記事としてあらわれた元亨の年(1321)までは137年も経過している。
この間に熊野からなんらかの形を受けいれて祭祀の中心地としての 当地の神域で崇めたであろうことは
十分に想像できる。
北区指定無形民俗文化財王子田楽をあれこれ検討すると、伝承芸というのはその芸の形態には歴史性があらわれていることがわかる。
平安時代のパレード田楽と鎌倉期以降の陰陽二列田楽とは形態が違う。
王子田楽の成立の古さは芸態を見てわかる。
同時に、「修験の思想背景をもって良く構成されてる」のがわかる。
このような歴史性を帯するものが醸成されて成立するには時代背景のなかで十二分に培われた芸性を得てしか生まれ得ない大きな必然性の存在を否定できない。
そこでつぎのような推測をする。
豊嶋有経が紀州熊野地方と関りができて間も無くの頃に熊野神が当地(王子)にもたらされ、その信仰のもとに金輪寺で100年と
かの長期に及び思想醸成ができて、豊嶋氏が最大統治領域を獲得できたころの勢力絶大なころ、豊嶋景村が新たに熊野神の
若一王子神を勧請しなおして神域に王子宮を設置し、王子田楽を作り催した。(@33koku)
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