王子の狐物語


王子装束榎木と狐


歌川広重が1857年(安政4)代表作としての名画「名所江戸百景、 王子装束ゑの木大晦日之狐火」を発表しました。 →広重の絵
この絵のロマンを現代に現そうと 「 除夜詣で狐の夢行列 」 を行っています。

この名画をさかのぼること200年も前、 狩野派の絵師狩野尚信が1639年(寛永16) 「毎年おぼろづく夜、諸方の命婦(註・狐のこと)そのともせる火の山中につらなりつづける事、そくはくの松明 をならぶるがごとく」との絵を「若一王子縁起」の中に著わしていたのでした。上の絵がそれです。



王子・狐の行列の会では、毎年、王子装束えの木を出発して王子稲荷神社に向かう 「狐の行列 」 を 行っています。
これは、その背景となっている王子の狐ものがたりです。
(王子はずっと古くは岸村といっていました)

その 1
王子の狐火
むかしむかしの大昔、海辺が荒川を見晴らすそばまで広がっていたころ、

岸村の近くの古いふるーい大榎木(えのき)のあたりに、

たくさんの狐火がありました。

狐火は、とくに大晦日の晩に限りなく現れ、

不思議なことに、たくさんの時ほど、翌年の作物が実り多かったのでした。

村の人々は、何か恐れ多かったので、

だーれもそばまで行く勇気のある者はいませんでした。

あるとき、村人たちは皆で話あって、代表を何人か選んで、

狐火のそばまで行って見てみようということになりました。

一番狐火の現れる寒いさむーい大晦日の晩でした。

村人の代表たちが草をかぶって息をこらして遠くで見ていると、

どこからとも無くそれはそれはたくさんの狐火が現れて

大榎木のそばまで来ると、不思議不思議、身仕度をととのえた狐の姿に、

次から次から変わっていくのです。

すべての狐火が装束(しょうぞく)を調えた姿になったときのことです。

一匹の白い狐が前に現れて、ゆっくり岸稲荷さまに向って歩みはじめると、

すべての狐たちも列をつくって従って行ったのです。

その列は延々と続き、人家の無い岸稲荷さまの丘の中腹は、

稲荷さまへ向かうゆれる狐火でいっぱいになりました。

次の年、岸村のあたりの村々は、それはそれはゆたかな実りと、

争いや災いの無い良い年となりました。

村々の人々は相談して、岸稲荷さまの側らに、

岸稲荷さまをお護りしていただくために白狐(びゃっこ)のお宮を建て、

大えの木を装束えの木と名づけ、

その根元に装束(しょうぞく)稲荷を設けてお守りすることにしたのでした。

王子白狐衆新民話・語り=王子の小四郎

王子の狐火
白狐神社
江戸後期の絵




その 2
王子稲荷へのお狐は東国33国の使者。


「関東」を現代の「関東地方」として王子稲荷社と狐火のことを記述されるホームページを沢山お見受けします。
古来よりの奥深い狐火伝承をみんなで護ってまいりましょう。


江戸時代の寛政三年(1791年)までは王子稲荷社が宣揚していた民話
「毎年十二月晦日の夜、諸方の狐、火燈して来る、三十三ケ国の稲荷の惣つかさなり、」

三十三国とは
近畿地方から見て東方にある地方=東国。


三十三国は、

東海道の15国---伊賀国、伊勢国、志摩国、尾張国、 三河国、遠江国、駿河国、伊豆国、甲斐国、 相模国、武蔵国、安房国、上総国、下総国、常陸国、
東山道の11国---近江国、美濃国、飛騨国、信濃国、諏方国、上野国、下野国、陸奥国、石城国、 石背国、出羽国、
北陸道の7国---若狭国、越前国、加賀国、能登国、越中国、越後国、佐渡国、

このように王子稲荷の別当寺金輪寺の「三十三国」との伝承は、陸奥(むつ)をも含んでの平安時代の 区分、「関東」=「東国」のことを言っていることがわかるのです。
(西国も九州九国を入れて三十三国に分かれていました。)



実は、それより150年もさかのぼる前の寛永14年(1637)、幕府による狐火調査がすでにおこなわれていました。
王子に深く関心を持っていた徳川家光はこの事実関係の調査をさせていたのです。

以下がその記録です。

「毎年十二月晦日の夜、諸方の狐、火燈して来る、御徒目付、狐火御検分の為之を遣わせらる由」

調査後の兄弟社、 王子権現社縁起(寛永18年[1641]完成)の中の記載

「毎年朧晦(おぼろつごもる)夜、諸方の命婦、 此の社へ集まりきたる、其ともせる火の山中につらなりつづける事、 そくばくの松明をならぶるがごとく」
ここで言う「命婦」は、稲荷の使いの狐のこと




その 3

「関東」の概念から王子稲荷の伝承を検証する。


王子稲荷が、もっと古く 「 岸稲荷 」 と称していた平安時代に
源頼義から関東総司とあがめられていた
という社伝からみると、 東日本におよぶ「総司」との認識はずっと江戸時代まで続いていたものだったことがわかるのです。
そのことをもう少し詳しく見ていきましょう。

王子稲荷の社伝によれば、
「康平年中、源頼義、奥州追討のみぎり、深く当社を信仰し、関東稲荷総司とあがむ」
と伝える。
康平年中は、平安時代後期、後冷泉天皇の御宇に,朝廷の勅命を受け,源頼義・義家公父子が陸奥の 安倍貞任を征伐すべく東征夷蝦人を平定した[前九年の役(1051〜1062)]時である。

此のときの「関東」は、畿内 [=中央 ] 以東、つまり奥州も含めて「東国」三十三国のこと。
決して江戸時代の関八州という狭い範囲のことではありません。




古代の律令制で畿内を防御する目的で三関「律令三関(りつりょうさんげん)」が置かれた。

1:東海道鈴鹿関(鈴鹿峠)[三重県(旧伊勢国)北部]、
2:東山道不破関(関ヶ原)、
3:北陸道越前愛発関(あらちのせき)[愛発山]
[平安時代に越前愛発関が廃止され、代わりに近江国逢坂関が置かれて、逢坂関以西が 「関西」と認識されるようになった。]

三関から西を「関西」、

三関から東を「関東」と呼んだ。この当時、関東は東国とほぼ同義であったのです。



14世紀中期に室町幕府が成立。鎌倉に鎌倉公方が置かれると、古代、板東と呼ばれてきた相模国 ・武蔵国・安房国・上総国・下総国・常陸国・上野国・下野国の8か国と、伊豆国・甲斐国の 10か国が「関東」と認識されるようになった。
14世紀末に陸奥国・出羽国が鎌倉公方の管轄下となると、奥羽も「関東」とされる場合もあった。

徳川家康による江戸幕府の創始によって、三度「関東」概念に変化が生じることとなった。
幕府が置かれた江戸を防御する箱根関・小仏関・碓氷関より東の板東8か国が、「関東」と呼ばれるようになった。
幕府の公式見解によれば奥羽も「関東」に含むとしていたが、「関八州」と呼ばれたように一般的には 旧来の板東8か国のみが「関東」と認識されていた。

江戸時代の「関東」の概念はそのまま明治以降も継承され、現代の関東地方(茨城県・栃木県・群馬県 ・埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県)へと至っている。



秋田市通町招福稲荷神社の伝承物語。

「招福稲荷は、東京都北区、王子稲荷の分霊であり、王子稲荷が本宮である。
招福稲荷の狐が大晦日の王子稲荷の参拝をするために、山の幸、海の幸、畑作物、果実など、その年 の秋に収穫された山海の珍味を持って旅に出る。羽州街道を招福狐が通ると村々の稲荷狐が見送り、 その狐火は遠くの里から見えたと言われる。
また、招福狐はその年々、王子への行列の道筋を変えて、その村々の繁栄と村人の長寿を祈念して 通ったと言われる。」

秋田は古代に「関東=東国」。


話を元にもどしましょう。
寛政年間、寛政の改革のおりの思想・風俗統制の対象はここ王子稲荷神社にも及びました。
それまで王子稲荷神社の別当金輪寺が
「関東三十三ケ国の狐が王子稲荷神社に参集し、この灯す 狐火をもって翌年の作物の豊凶を占うことができる」
といった神徳・霊験を宣揚してきたのを 老中松平定信を中心とする江戸幕府は思想・風俗統制の対象として、「関東三十三ケ国」表記の額、幟 を没収してしまったのです。
以降、「関東三十三ケ国」は観光案内誌や版画の上で出来なくなったのです。
民話が政治圧力でつぶされてしまったわけです。
それ以降、ひとびとは「関東八ケ国」の狐、と言わされるようになりました。
ふるさと王子の歴史ロマンを求める「王子の狐」ファンとしてはとうてい承服できないことですね。
王子稲荷の別当金輪寺は、幕府命令に逆らってまでして、縁起絵巻に付箋をつけて「三拾三ケ国の狐」 と言いつづけました。以下がその絵巻につけられてあった付箋です。
「三拾三ケ国の狐」との付箋


@33koku