筆絵・明治38年以前の

四本木(しほんぎ)稲荷の様子


四本木稲荷(しほんぎいなり)絵。
四本木稲荷は、陸軍工廠(こうしょう)が明治38年に造られる以前の、
七軒町(しちけんちょう= この時期には21軒になっていた)村人達が祀っていた王子稲荷分社で、
その隣に住んでいた住人が工廠以前を 筆絵に残した。貴重!


当サイト以外のネット上に見られる「四本木稲荷」検索のほとんどが「加工廠(しょう)が事故後に祭祀 した」との説明による記事の引用です。それらに共通の要点は
@ それはこれまでの研究者が、今ここに公開した筆絵資料に接していなくて、 先住民が立ち退かされて取り残された稲荷が明治38年以降、加工廠の管理にゆだねられるようになり、


内部の事故からの護り社として存在せざるを得なくなってからの姿のみ記録に残ったからであろうと考えられます。
A その上にさらに滝野川に再移転となり、昔の伝承もおぼつかなくなった時に、「よもとぎ」 との呼び名がもっともらしく広まったのです。
私が最初に耳にしたのは、「高木とか榎本とかの木と本の字をもつ 4軒により祭られた稲荷だからヨモトギと言うそうだ」とのおどろくべき説明話でした。この時以降しきりと「よもとぎ」 を聞くようになりました。
この時期以降、区の広報としてずっと出てくるようになって今に至るのです。平成27年3月4日現在。


3月4日本日、北区地域振興と教育委員会文化財部門に報告を入れましたので、今後の対処を期待します。


四本木稲荷筆絵



四本木(しほんぎ)稲荷HOMEへもどる。

[ 参考文献 ]
* 「北区史を考える会」会報第112号、 「七軒町(しちけんちょう)と四本木(しほんぎ)稲荷」 平成26年5月
* 七軒町会刊「七軒町誌」 昭和8年10月

2027.3.3→ by [ツイート @33koku ]... メール sky-8@outlook.jp