四本木(しほんぎ)稲荷神社


[ 概略 ]
四本木稲荷(しほんぎいなり)は「七軒町(シチケンチョウ)」と呼ばれた地域に明治38年(1905年)4月に 陸軍火工兵器廠(しょう)ができる以前に王子稲荷神社の古い 分社 として住民らに祭られた社としてすでにあった。

火工兵器廠ができてからこの稲荷がつくられたと一部伝えられているのは、 いきさつに何やら混同があってのことと推察する。

その地の居住者は二族で、高木と駒崎で、その家系はかなり古い。高木の本家は鎌倉時代以前と言われ、 その分家であった七軒町の高木は確実に江戸期にさかのぼる。四本木稲荷の創建を示すものは見い 出せていないが、火工兵器廠ができる以前にすでにあったことは判明しているのでここではそのことについて記す。

東京都北区の前身、東京都王子区と地名がなったもっと前の明治38年4月に四本木稲荷の置かれていた 七軒町の地は陸軍に買い取られて火工兵器廠がつくられた。それで隣接地の「稲荷公園」に移された。 兵器廠は戦後アメリカ軍に接収され、のち自衛隊十条駐屯地となってからも「稲荷公園」にあったが 昭和30年頃に滝野川3丁目アパートの一角に移転しなおされた。
[ 七軒町 という名の村 ]
[ 住人 ]
「七軒町」は明治38年までは下十条町の前身の一町で、高木姓12軒、駒崎姓9軒、に増軒なっていたのだが 実態は茅葺の21軒の農村であった。「七軒町」の農地は現在の中央公園と自衛隊地との両域におよんでいた。
・明治38年以前の七軒町の家屋模様筆絵

七軒町家屋筆絵

[ 作物 ]
同町住人の記録絵によれば、ムギ、サツマイモ、ウリ、ダイコン、アワ、モロコシ、ニンジン、ゴボウ、ナス、ネギ、エンドウ、 が栽培され、ダイコンは特に良質で練馬大根に劣らず沢庵の名所だったという。住民は機織り機をもっていた。

[ しほんぎいなり ]
もと住人の古老・故高木ぬい(高木孫八娘)、の語った録音が昭和年代になされて残っているが、 それによるとここに祭られてあった稲荷は、

「サワラ、モミなど4本の樹で囲まれていて、それで皆が、シホンギいなり、と言ってたのよ」

という。
ところで私見になるが、この稲荷ができたときは江戸時代以外には考えられないが、サワラの樹の高さがどのくらいで 15〜6尺になるかは別として、はじめから樹木が四本あったかは不確定と思う。おそらくはじめは無名であったか 、隣家の名で「〇〇んトコの稲荷」とか、あるいは「七軒町の稲荷」とかくらいに周りからは呼ばれたのではないだろうか。
はじめから「七軒町」全体の意思で作られたものであったら「七軒町稲荷」の名で永続したのではないだろうか。

ただ、大事なことを記しておきたい。この稲荷は「王子稲荷分社」であったことである。

この古老の話の内容は、別家の同じく元住人で描画をよくできる古老・故高木源蔵(高木藤吉長子磯吉弟)、が思い出を 墨絵にしたものに全く合致していて、 正しさがわかった。絵の四本の木は、スギ、モミ、ナラ、サワラ、としっかり木名が記してある。一番大きな樹のサワラは 説明文によれば直径太さ7尺、高さ15〜16尺で千住大橋からも見えたと書かれてある。

・明治38年以前の四本木(しほんぎ)稲荷模様筆絵

四本木(しほんぎ)稲荷筆絵

筆絵・四本木稲荷、拡大 クリックで拡大ページに行きます。

四本木稲荷が同町内に鎮座されてあった時は、その社地約150坪。明治35年3月12日、村内での初午入費は、 金1円、金20銭、金20銭、金9銭、金6銭、金3銭6厘、金6銭、金3銭7厘、金30銭、酒2升、お供え、御初穂、 種油、半紙2帖、美濃紙6枚、地口(行灯絵か)6枚、小物、ということだった。

[ 地域位置 ]
四本木稲荷のあった七軒町は王子稲荷の上の台地「上ノ原」の地から十条方向につながる地である。 崖の中腹にある王子稲荷の上の台地は特別の地として景観されてあったかもしれないことが、 そこに王子稲荷を守る「白狐の社」があったことから推し量ることができる。

王子稲荷の
分社であった四本木稲荷はその土地の住民にとっては 王子稲荷を身近に感じる信仰の対象となっていた。
「七軒町誌」には、「王子稲荷神社と併わせて祭典を営んでいた。」と記されている。
(ちなみに、分社とは 王子稲荷と同神を祭るということであり、一方、摂社は同族神を祭るもの、末社は関係神ほかを祭るものとされる。)

注記 : (江戸期の地図絵や明治期の浮世絵に描かれてある白狐 の社は戦災で焼失し、戦後、崖上の危険さから廃墟のままにされて人が行けないようになってある。)

[ 結束 ]
住民は皆居住移転させられたのだが、住民間のつながりは散りじりになった後も「七軒町会」を維持し、 十条富士神社の祭礼にかかわり続くなどして大正期をとおして強固であった。
[ 七軒町誌 ]
「七軒町会」は昭和8年に「七軒町誌」を発行した。それによると、「サワラ(植物)、モミ、の大木などが昼なお暗きまでに生い茂っていた」と あり、先の古老の描画はこの記述に合致している。
誌には、 陸軍の居住者立ち退かせの明治38年の出来事を次のように記している。「火工廠買収の際
町内に在ったものを移転改修した」。
買収の後、火工廠にあった(出来た)ものを移転したのではなく、買収の際にそれまで町内に在ったものを移転した、ということである。 これにより、明治38年以前に在ったことが疑う余地がない。
七軒町誌

[ 四本木稲荷の現在の語られ方 ]
北区地域振興部は四本木稲荷創建の歴史を火工廠が出来てからとして誤り伝えているばかりか、 四本木の読みも間違えて伝えている。
明治生まれのこの地の古老たちが樹木を数えるとき、 四本を「よんほん」とは言わなかった。「しほん」と言っていた。これは郷土史を考えるうえで 大事な資料要素と言える。


正しくは「 しほんぎ 」、なのだが、 昭和60年代に郷土史愛好者が「 よもとぎ 」、と全く自己流の読みをふって地誌に執筆 した、と別の郷土史愛好者の証言が「北区史を考える会」会報上にある。
その後この誤表記の引用に引用が重なっていき 誤り伝わったのを北区地域振興部がそれを踏襲してしまったために今日取り返しがつかなくなってしまったものだ。2015.3.4

また、或る記述書には、兵器廠造営時に見つかった古墳の上に祭った社であるとされているが、 それはこの稲荷の創立由緒ではあり得ない。この社自体が兵器廠造営以前のものだからだ。

もしこの社が工兵廠敷地となった後の地内の古墳の上に移設されたのであれば、それは別の意味で改まった四本木稲荷になった、 ということは言える。ただし、明治38年以前のこの社の創建にさかのぼってそれらをすべて証明できることの言及はこれまでどこにもされていない。

北区史の研究者らは四本木稲荷の誤伝承を懸念し、研究誌に指摘している。

なお、この社が滝野川に移設されたときのそこの地での工事にかかわる古墳の話題などについては、「しほんぎ稲荷」の所以には関わらないことなので 言及はさしひかえる。この稲荷社の発展を祈念してやみません。

地元の王子神社、王子稲荷神社、両社の歴史、伝承文化、
芸能についての書き込みがあります。

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王子座伝承館

[ 参考文献 ]
* 「北区史を考える会」会報第112号、 「七軒町(しちけんちょう)と四本木(しほんぎ)稲荷」 平成26年5月
* 七軒町会刊「七軒町誌」 昭和8年10月

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最終更新 2015.3.5