×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

どんちゃんの田楽と狐のgooブログ報告とその他の書き込み。



-----項目-----(東京都北区王子)

・広重の版画絵「王子装束ゑの木大晦日王子の狐火」のナゾ
・作られてしまった面白くないふるさとの歴史=王子のとんでもない伝承
・中世修験道の思想が見える王子田楽
・中世豊嶋氏の最大勢力時の統治エリア
・王子神社(旧称・若一王子宮、王子権現)の歴史のこと
・JR王子駅まわり
・王子神社の田楽

■ 広重の版画絵「王子装束ゑの木大晦日王子の狐火」のナゾ (東京都北区王子)

広重の最晩年の作といわれ、広重の最高傑作ともいわれる「王子装束ゑの木大晦日王子の狐火」。
この浮世絵は地域の恒例行事、大晦日「王子狐の行列」のイメージが生まれるロマン的資料となったとされているものです。

広重のこの絵は1857年の発表とされる。その前に「江戸名所図会」に長谷川雪旦(はせがわせったん)が1835年ころ「装束畠 衣装榎木」として同じ樹木の場面を描き発表しています。

榎木とその後に立つ松の木、そしてその下に群がる多くの狐たちのこの構図は広重に引き継がれました。
ただ、そのまま引き継がれたのではなく、広重の絵のほうの狐の配置は雪旦のよりずっとシンプルに明瞭に円陣となっているのが特徴で、漫然とした配置にはなっていないのです。
雪旦のでは木から少し距離を置いた付近の狐たちはおびただしく居て道や畑に散在していて、どこから来たという方向性も見られません。

広重の絵は縁あって、とくに身近に見てきました。そうしたなか、ある時ふと気がついたのは、世評言われる「榎木のもとで狐が着替えて王子稲荷へむかう、絵の奥が稲荷だ」という説明にたいして、狐がみんなこちらに向かってやって来る、という絵の実際です。これに気対いたときには我ながら本当に唖然としました。
ここに「王子装束ゑの木大晦日王子の狐火」の右奥の狐の大群部分を大きく拡大してご覧に入れましょう。

狐はみんなこっちにやって来る! それも、三々五々ではなくて恐ろしいほどの集団となって押し寄せる、といった風です。間違いありません。狐がこちらに来る絵だったんだ!
周囲に話しをしても、あたかも洗脳されているかのごとき反応を皆見せるのでした。
つまり、のっけに「そんなはずは無い」という反応です。つまりは、今までは世評のまま狐が向こうへ行く絵だと思い込まれていますので、しげしげとそこまでは見ていない、ということの反応です。
もしくは指摘されて気が付かれて、絵の奥は単なる森でそこからやってくるので不思議は無い、というものです。

広重絵をあらためてご覧いただきたいのですが。
広重が王子稲荷を画いた別の絵があります。

「王子装束ゑの木大晦日王子の狐火」とくらべて見れば、広重は奥の森と手前の茶屋風景とで王子稲荷の風情を表したのは間違い無いでしょう。

王子に狐の集合という場面はこれより古い時代の絵に他の人も描いています。
1641年、狩野尚信が「若一(にゃくいち)王子(王子権現・王子神社)縁起」絵巻の中に王子稲荷神社の関連に描きました。
王子の狐絵が出てきた資料としては今のところ最初のものです。

この絵では松の木(後世、榎木になりましたが、古くは松だったのです。)の下に二匹ですが、狐はあちこちに散見し、別に集団という表現は見られません。一様に小道にあちらこちらに幾匹もの狐が点在して遊んでいるようなものばかりでした。

狩野尚信の絵と、長谷川雪旦と、の両者のものとくらべて、広重の絵は違っていて、あきらかに鋭い主張性を持っています。
広重の絵は二つの大きな明解を持っているのです。一つは樹木の下の狐の円陣であり、一つは集団でこちらに寄せて来る狐たち、です。

人によっては、単に向こうの山からこちらに来ているだけだ、と言ってこの絵の説明を終わりにしようとされます。

私は、狐たちがわざわざ人気(ひとけ)の有る危険な民家の間をすり抜けてやって来なければいけない理由がきっとこの絵にはある、というふうに見ます。そうでなければ、世にひろく言われてきた「諸国より狐火が王子に集る」という題材だけだとしたら、一箇所の森から危険を犯して人家をぬって大挙やって来る狐火、というのは静寂な星空にくらべて、全く不似合いだけに終わってしまうのではないでしょうか?


単に正装束に着替えるため人家をぬってやって来る狐火、とは、いかにも何かがある!!! と思われませんか?

これはどうしても、描いた広重と版画を売り出した業者の説明との間に、異なる思惑があったとしか思われません。
こうした疑問をHTMLにしてあります。ご覧いただければ幸いです。

リンク→
「王子の狐、広重「王子装束ゑの木大晦日の狐火」の絵の不思議」をご覧ください。



■ 作られてしまった面白くないふるさとの歴史=王子のとんでもない伝承 (東京都北区王子)

ふるさと王子の伝承についてだけのことですが幾つも納得できないことを見つけました。
それだけから見ても正していきたい歴史がどれだけ一体周りにあるんだろう、って思ってしまいます。
気にしなければそれでよいと言えば良いのでしょうが、知らないではずいぶんもったいない話だと思うんです。

王子には自分の把握している誤まった王子の歴史伝承話が四つあります。
1. 王子田楽は熊野から伝わった、としてきた古学者らの論。
2. 王子の田楽は農作物の豊穣を祈るおどりだ。
3. 王子の狐火は関東中から集ってくるという民話伝承だ。
4. 安藤広重の最高傑作浮世版画絵「王子装束ゑの木大晦日王子の狐火」は榎木に集った狐が装束を着替えて
向こうの森の王子稲荷へ向かう絵である。

これだけでも歴史って結構、誤まったり変更されたりしてきているものだなあと思うのです。


1. 王子田楽は熊野から伝わった、としてきた古学者らの論。について
田楽の研究は明治、大正、昭和初期、にかけて盛んにおこなわれました。
そこでは「熊野から伝わった王子田楽は・・」と学者が一様に論をすすめていました。
この論の源は江戸時代の中ごろに「江戸砂子」という江戸の名所地誌が、王子神社の縁起絵巻の中の王子神社境内で舞う熊野から伝わったという記載のある「花しずめ」の説明を王子田楽の解説と読み違えて紹介したのが始まりです。以降、他の書がそれを引用し、年代を踏んでも訂正されず、ついに昭和にまで引用されつづいてきたものでした。
生前、昭和63年8月、王子神社田楽祭で王子田楽をご検証中の故本田安次先生→
国の文化財審議委員をつとめられ、早稲田大名誉教授であられた故本田安次先生が、戦前、那智大社の神主さんがぜひ那智から伝わったとされる王子田楽を見てみたい、とおっしゃっていたのでご案内して王子田楽を共に見たときに言われたのは「那智とは全然ちがいますね」とのことだったと本田先生は拙宅にて話されました。
昨今は私が幅広くこのことをネットで広めているせいかはわかりませんが、「王子田楽は那智の写し」などという説明はようやく少なくなりましたが、あい変わらず古い学者の説明を引用しているものがみられます。


2.王子の田楽は農作物の豊穣を祈るおどりだ。について
どこででも王子田楽という言葉を出すと農業の芸能との言葉が帰ってきます。王子田楽は明瞭に魔よけを行う修験思想を背景とする躍りであって、農耕儀礼のものではありません。
当ブログ「王子神社の田楽」項をご覧ください。


3.王子の狐火は関東中から集ってくるという民話伝承だ。について
王子の狐火伝承はおそらく平安時代ころからのもので、徳川幕府が政治干渉にはいるまでのたいへん長い歴史にわたり東国三十三ケ国からの狐火伝承であったものを、寛政の改革時にその伝承を不許可にした、その後に今のような「関八州から集合」と作り変えられたのです。 こちらのことは当ブログの「王子神社(旧称・王子権現)の歴史のこと」項の中の王子稲荷神社の話のところと

リンク→
「王子狐の歴史・東国三十三ケ国の狐が王子に集合」をご覧ください。

4.安藤広重の浮世版画絵「王子装束ゑの木大晦日王子の狐火」は榎木に集った狐が装束を着替えて向こうの森の王子稲荷へ向かう絵である。について
鮮明な版画を見てみれば歴然です。
狐の群れ部分の拡大→

狐は向こうへ向かうのは無く、全部の狐が民家の間をすりぬけてこちらの榎木の大木めがけてやってくるのです。狐が出てくる向こうの民家と森は、ほかの浮世絵を見ればわかるのですが正に王子稲荷神社の鎮座するたたずまいなのです。これがどうして”王子稲荷へ向かう絵”なのでしょうか?世の中の人がこれに気づかれなかったのが不思議です。ネットで調べて見てください。狐が向こうの稲荷の森へ向かうと説明しているのがごちゃごちゃ出てきますよ。

絵を描いた広重とそれを解説して売り出した版画商人との全く違った思惑があると見ました。この謎を解くことは歴史の大きな発見にたどり着くでしょう。
この絵は広重最晩年のものという話題のほか、広重生涯の最高傑作とも評されるものなのですよ。
お若いみなさん、ぜひこのナゾに挑戦してください。
真実を見ようとしない方には興味ないことでしょうけど。

このことは項をあらためて書かせていただきます。




■ 中世修験道の思想が見える王子田楽(東京都北区王子)

中世に生まれた芸能は修験思想を背景に持っているのがほとんどではないでしょうか。
中世に暮らした人々は身を護るためにとても陰陽とか魔とかいうことを気にかけて生活していたようです。
それだけ日常の生活が戦とか争いとか抑圧とか貧困とか病とか人さらいや行方不明とかに恐れおののいていたものだったのでしょう。
その時代に生まれた芸能は願いをもち願いは祈りとして信仰と一体になっていて、祈りを持たない芸能のほうは稀だったように思われます。
信仰は不安脱出の方法を説くものでもあって、多くの形態が生まれました。
修験はそのひとつでした。修験というのはもともとは山岳信仰であり自然の摩訶不思議に万物の力学や精神の源があると考えるもので、仏教思想の影響とあいまってひとつの信仰分野となったもの、ということだと思います。

宇宙は、木火土金水の五要素から成り立ち、陰陽が相互に作用しあって移ろうというものでした。
五要素は、青(みどり)赤黄白黒に対応して表され生物が生まれる地上であり地をきわめて大切に認識すべきものという観点に立つものでした。

修験の作法に反閇(へんばい)という特殊な歩行方法があります。神事で「場を清める」意味で使われるものです。

反閇はもともとは、道教に源があるといわれ大地の霊に表敬するのが第一義であり、「場を清める」や「魔よけ」などは副次的に発生したものだそうですが、日本の修験ではきわめて重んじられ、一歩一歩丁寧に足を運び悪魔を踏み鎮め邪気を祓うという所作として多用されました。

現代ではこの反閇そのものを目にすることはほとんどできませんが、意義的に近いものは神社でみることができます。拝殿内奥の神前の階段を昇降する神主さんの足元にご注意ください。一歩一歩丁寧に足を運びます。

王子の田楽も修験の思想が織り込まれていることがわかるのです。
王子田楽の躍り手は、背にススキを差し、また二本の刀も差します。
躍り手は、外から登場する魔除けの神様方との想定で、魔除けの色としての赤い紙垂れを花笠に付け顔を隠しています。
躍り手は、腰に各々が七本の大太刀をつけた二人の鎧武者に護られて登場します。

躍りに入る舞台の下に一同はしずしず進みます。このとき地を踏みしめるには修験の作法である反閇で一同が進みます。

躍りのはじめは舞台下で「中門口」を演じます。
youtube[中門口]

躍り手の花笠は五色に彩られ、躍りは陰陽に分かれた衣装で二列になって行いますし、躍りでは神様役の主役は修験の「九字」の構成をなぞるようにして進む動きになっています。
そして、舞台上で魔除けの神様としてふるまい躍るのです。




■ 中世豊嶋氏の最大勢力時の統治エリア



『王子神社の田楽(王子田楽)』(東京都北区王子)の項で
「 鎌倉時代以降の300年間という長きにわたって豊嶋氏という統治者が、いまで言う東京地域のほとんどから南埼玉に至る広大な領域を治め、・・・」 と書きました。

豊嶋氏のことを書いた書の中に、豊嶋郡、足立郡、新座郡、多摩郡、児玉郡の五郡を領した、との記述もあります。五郡統治という記述は、後醍醐天皇の時期の記述に出てきます。

五郡統治ということとか、それ以外のこととか、長い長い豊嶋氏の歴史のなかでは実効支配の細目は時代時代で変わっているということもありますし、それぞれの地域に詳しい方の解説でお調べ下さい。

ここでは、実効支配としては豊嶋郡全域とその周辺から多摩の内部にも及んでいたという記述が多いということをお示ししておきます。そういうことをご理解のうえでご覧いただきたいのがこの地図です。中世豊嶋氏の最大勢力時の統治エリアとされているのを地図に色付けしてみました。

そこに王子を中心に近辺を同心円で漫然と囲ってみました。
こんくらいはいつも実行支配してたかな、なんて調子で丸をしただけですが。この範囲をみるだけでも広大なのが判ります。

ま、ともかく、中世豊嶋氏の最大勢力時の統治エリアの中心地が王子でした、とお示ししたいわけです。

王子権現は豊嶋氏の産土神としての地位であったとされます。

こういう豊嶋氏の庇護のもとの「王子田楽」だったのです。



■ 王子神社(旧称・若一王子宮、王子権現)の歴史のこと(東京都北区王子)

王子神社は京浜東北線・王子駅から100mのところにあります。
【王子神社の歴史はいま想定されているよりもっとずっと古いのではないかな】と思うこのごろです。

当地は中世に豊嶋氏という武家に長い間治められていました。
文明10年(1478)太田道灌による攻略で滅亡しましたが、さかのぼれば豊嶋武常は前九年の役(1051年→1062)で源頼義に従い、曽孫清元(光)は源頼朝に従ったのです。
豊嶋氏はこれより代々鎌倉幕府に仕え当地支配を磐石なものにしました。
400年以上もの長きにわたり当地の支配をつづけたわけです。

豊嶋氏は頼朝配下として重んじられて豊嶋有経が元暦元年(1184年)に紀伊守護人にまた紀伊三上庄地頭に任ぜられて紀州熊野地方と関りができました。

王子神社の成立についてみてみますと・・・徳川家光の命で起こされた「若一王子縁起」という縁起絵巻があります。
この書には王子神社の縁起について「後醍醐の天皇御宇元亨の年・・・新たに祠宇を建てあがめける」と書いてあります。

「新たに」という言い方が二つの解釈を生んでいます。
一つは『まったく無いところへ新規に』というのと『今までも有ったが作りなおして』というのとの二つです。


【歴史というのは新しいもののほうを人は受け入れる傾向があるような気がします】。
たとえば、【王子の狐民話】がその例です。こちらの話は王子神社の隣の王子稲荷神社のほうの話となります。
いま、王子の狐の民話伝承について大晦日に関東中から狐が集るもの、とほとんどの人が受け止めています。
しかし実はこれは幕末の【寛政時代から作為的に幕府が民話に介入し、作り変えて流布された】
のです。
事実はこうです。
おそらく平安かもっと以前から王子稲荷には東日本(当時のことばで「東国」)全域から狐が集合するという伝承がずっと続いていた。

【 →王子の狐の歴史 】http://ojikitune.web.fc2.com/kitune-no-rekisi.html

寛政時代になって江戸幕府は王子稲荷の経営に干渉しようと調査に訪れた。
調べた役人が寺社奉行松平輝和を通じ老中松平定信に「(王子稲荷が)東国惣司ト称シ候」(王子稲荷が自分のことを東国総司と自称していますよ)と文書で進達していたのです。
つまり、東国33ケ国の総司と王子稲荷が喧伝していたことの事実報告でした。
幕府は王子稲荷から東国33ケ国を表記したもろもろを没収し奪権の処罰を与えたのです。
変な話です。

【もともとは王子稲荷の東国33ケ国狐集合伝承はおそらく平安時代からのものです】。
それを徳川幕府は幕府がそのようにみとめ認証したものではないからといって民話伝承の否定にかかった、というわけです。幕府権勢の維持にやっきになったということでした。
世には「寛政の改革」といわれている社会引き締め策がおこなわれました。

以来、狐民話は狭く「関八州から狐は集る」と地誌などで解説されるようになったのです。
人々はこの民話をずっと口にしてきたのです。

ま、そういうこともあって、王子神社の成立の話もなにか手近いことだけでの検討ではいけないのだろうなあと思うんです。

【豊嶋有経が紀伊守護人に任ぜられて紀州熊野地方と関りができた1184年から、記事としてあらわれた元亨の年(1321)までは137年も経過しています。この間に熊野からお札をいただき、祭祀の中心地としての当地の神域で崇めたであろうことは十分に想像できます】。
それゆえ、【発見できただけの資料にのみこだわって王子権現(王子神社の旧称)成立の解釈を試みるということが真実にせまれるとは思えないのです】。

北区指定無形民俗文化財王子田楽をあれこれ検討して思うのですが伝承芸というのはその芸の形態には歴史性があらわれています。
平安時代のパレード田楽と鎌倉期以降の陰陽二列田楽とは形態が違います。
こういうことなどいろいろから推定して、王子田楽の成立を考えてみると、「とにかく古いよな〜」、というのが感想です。
それと同時に、「修験の思想背景をもって良〜く構成されてるな〜」、とも感じます。こういうすごいものが醸成されて成立するには時代背景のなかでタップリ力量を得てしか生まれないだろうという大きな必然性の存在があったにちがいない、と思うのです。

なんだかまとまりつかなくなっちゃいましたが。そんなこんなで、つぎのように想像しました。
豊嶋有経が紀州熊野地方と関りができて間も無くの頃に熊野神が当地(王子)にもたらされ、その信仰のもとに100年間くらい金輪寺で思想醸成ができて、豊嶋氏が最大統治領域を獲得できたころの勢力絶大なころ、豊嶋景村が新たに熊野神の若一王子神を勧請しなおして神域に王子宮をこさえ、王子田楽を作り催した。 想像ですよ想像。




■ JR王子駅まわり(東京都北区王子)
を見ていて思うのは、どうしてこんなに魅力の無い町風情なんだろうということです。だいたい駅舎自体になんの風情もありません。JRの感性を疑ってしまいます。

そういうことは王子と言う土地の歴史の古さ重さを考えるにつけ思うからです。そして王子駅まわりの賑わいの有り方がとても気になります。それで、自分なりに王子駅まわりの町おこしということに思いを馳せてみました。

いまグローバル社会の中でさまざまなことが大きなうねりにのみこまれる現象を起こしています。
そうした中で世の中は地域主権の方向で解決を求める動きを始めています。
無策に流されたままに世の流れのままに従うのではなく地域の荒廃を防ぐために地域の独自性に立っての特徴を模索しながら住み暮らす者にとって納得のいける発展を目指そうという方向です。

いま、王子の近隣はすでに商業活動を巨大化させています。
地の利の悪い王子が近隣と同じことで争っても勝ち目が無いように思いますし、なによりも文化的特長の無い経済のみの発展の町にはなってもらいたく無いです。 それは、あまりにも王子の歴史の意義を捨ててしまう空虚な発展に思えるからです。
そこで思うのは、王子は王子独自な鮮明な発展法を考えなければいけない時期にきているのではないか、ということです。王子のJR王子駅まわりのにぎわいを、王子の歴史文化をふまえて考える人々の集まりが出来るとよいのだと思います。
歴史文化をふまえて、といっても単に古さのみ求める方向ではいけないとも考えます。

王子辺の町それぞれ別個にということで無く、一つの場においてでさまざまな立場の人がいろいろな角度から町おこしを提起できる仕組みがあったらいいのではないかなあ、と考えるのです。

http://2machi.yokochou.com/





■ 王子神社の田楽(東京都北区王子) を農耕儀礼つまり五穀豊穣を祈るものと思い違いされる方が多いですが、写真をご覧の上でなおそう思う方は少ないでしょう。躍り手は魔事退散を祈って赤い魔除けの紙垂れをつけています。豊作を祈る躍りであれば普通雨乞いという意味でも白い紙垂れを付けるでしょう。

王子の田楽(←クリックでリンク先へ)は田事系の囃子田と違って躍り系の田楽といいます。
囃子田ではスリささらを使うのに対し、木や竹を編みつらねたビンザサラというのを持って躍りあるいは所作します。躍り系の田楽は陰陽二列で躍るという特徴があります。

王子の田楽は現代に残る諸国の田楽躍りの中にあって、農耕儀礼ではないという点で特に異質です。
でも、現存の田楽のなかでは異質でも、もともと平安時代、鎌倉時代、という中世の田楽躍り全盛のなかでは、修験信仰を背景にした魔除けという催しにむしろごく普通であったのです。

そういうことを知らないでは東京都北区王子という、いわば江戸市中からははずれた土地に伝わったということで人々が”田事”の芸と見誤っててしまうのも仕方ないことでしょう。

王子の田楽を正しく見るには、王子という地域の古い歴史から見ると合点がいきます。
鎌倉時代以降の300年間という長きにわたって豊嶋氏という治世者が、いまで言う東京地域のほとんどから南埼玉に至る広大な領域を治め、その中心地が王子であった、ということを見てはじめて王子の田楽の本質が納得されてくるのです。

豊嶋氏は頼朝の旗揚げに寄り添った頼朝の重臣で一族は紀州熊野地方の守護と地頭とをつとめたほどの実力者だったのです。王子はそのいみでも地方の中心地であったわけで、もちろんその頃に江戸幕府なんてありませんから”江戸から遠い王子”なんて認識など人々にあろうわけがありません。

そうした豊嶋氏の最大権勢の時期に王子田楽が儀礼として作られたように思われます。時代としては後醍醐天皇の時期だったように推定されます。

現在の東京にこのような、みやびで、はなやかで、古典の形式を伝えた中世の御霊合(ごりょうえ)の系譜の田楽躍りが伝わること自体とても貴重です。

戦災で絶えていましたが昭和58年に40年ぶりの復興がなりました。躍るのは地元の小学生たちです。




■ 推薦・おすすめWEBページ

「きつね」の行列(王子稲荷神社)---MNGS.Webさんのページ

[ 動画 ]

2011.12.31〜2012.1.1 第19回・王子狐の行列---王子の里伝承観光舎

[YouTube] 王子きつね踊り ・「王子白狐衆」・第17回・王子・狐の行列 2009.12.31〜2010.1.1

[YouTube] 王子田楽(東京都北区王子神社)田楽行列 ・ 2010年8月8日、北区役所付近から神社までの行列

[YouTube] 2010年8月8日。王子田楽第一番、中門口。

[YouTube] 2010年8月8日。王子田楽十二番、こまがえし(子魔帰)。



by どんちゃん( = 王子の小太郎 ) 2012.6.25